2008年04月07日
お詫びとお知らせ
このブログをご覧になっている皆様、長らく更新を止めてしまって申し訳ありません。
あとはお知らせです。
このブログは、おそらくもう、更新する事は無いと思います。かといってこのブログを削除するのは勿体無いので、このブログは削除せずにここに保存しておく事にします。
というわけで、このブログ「探求する動物たち」は終わりを告げる事になります。
今までご覧になってくれた皆様、今までどうも有難うございました。
あともう一つお知らせがあります。
実は新ブログはじめました。以下。
http://ninninhoso.kitaguni.tv/
今までとは違う緩い感じでやっていこうと思っています。
新ブログの方は実験段階という事で今のところはやっておりましたが、ある程度の更新のメドがついたので、公表する事にしました。
あとはお知らせです。
このブログは、おそらくもう、更新する事は無いと思います。かといってこのブログを削除するのは勿体無いので、このブログは削除せずにここに保存しておく事にします。
というわけで、このブログ「探求する動物たち」は終わりを告げる事になります。
今までご覧になってくれた皆様、今までどうも有難うございました。
あともう一つお知らせがあります。
実は新ブログはじめました。以下。
http://ninninhoso.kitaguni.tv/
今までとは違う緩い感じでやっていこうと思っています。
新ブログの方は実験段階という事で今のところはやっておりましたが、ある程度の更新のメドがついたので、公表する事にしました。
2007年11月07日
小沢一郎について
民主党の小沢氏は「壊し屋」と呼ばれたりするようだけども、何故に「壊し屋」と呼ばれたりするのかと思う事がけっこうある。
あるとき、小沢氏について少し調べた事はある。あまり人物としての興味は湧かなければ、またこれといって深く知っているわけでもない。そうでありながらも述べれば、私からすれば小沢氏を見て「壊し屋」という印象を抱かない。
私から見える小沢氏という人物は、自分の主張が受け入れられなかったのか、それとも自分の主張を実現させるためなのか、そのような理由で自民党を離党して新党を立ち上げたのではないかと感じる。だから、何かを壊したかったという感じはしてこない。
だけども、「壊し屋」という名称がこれといって疑われず、その名称が案外にして違和感なく通用しているのではないかと感じるため、私にとっては不思議に思ってしまう。だから、マスコミがそのように印象付ければ面白くなるのではないかといった意図で名称付けたのではないかと勘繰ってしまう。
……。
それと、小沢氏は人物としての魅力はどうなのだろう、と思ったりする。
自民党と自由党の連立の際、当時の自由党の党首であった小沢氏に対し、「小渕首相は小沢にナメられているんだ」といった話を聞いた事がある。
その意味するところは未だによく解かっていないのだが、あるテレビ番組で扇千景氏が「小渕さんを助けると言っていたのに、言っている事とやっている事が違う」といったような事を言っていた記憶がある。そういうのもあって自由党から分裂し保守党に分裂した、というような事もたしか言っていた。
思想面・政策面はどうかとなれば、よく解からないところがある。というのは、「小沢さんのやりたかった事は、小泉さんがやった」といいった話を聞いた事がある。実際、かつての小沢氏は思想面・政策面においては小泉氏に近いところがあったものだと私は思っている。だが、現在は違うようだ。考えが変わるという事は人間にはあるだろうからその事については悪いものと断定まではしない。ただ、私が小沢氏に好意的に思っていないためなのか、世論に合わせているが故に自分の意見が変わってしまうという事なのかと、そのように捉えてしまう。
昨今では、民主党の党首を辞任すると突然言ったが、辞任を撤回するそうである。こうした行動をとるのは私にはよく解からないが、その方面に長けた識者の中には的確な事を言っている人はいるのだろう。
あるとき、小沢氏について少し調べた事はある。あまり人物としての興味は湧かなければ、またこれといって深く知っているわけでもない。そうでありながらも述べれば、私からすれば小沢氏を見て「壊し屋」という印象を抱かない。
私から見える小沢氏という人物は、自分の主張が受け入れられなかったのか、それとも自分の主張を実現させるためなのか、そのような理由で自民党を離党して新党を立ち上げたのではないかと感じる。だから、何かを壊したかったという感じはしてこない。
だけども、「壊し屋」という名称がこれといって疑われず、その名称が案外にして違和感なく通用しているのではないかと感じるため、私にとっては不思議に思ってしまう。だから、マスコミがそのように印象付ければ面白くなるのではないかといった意図で名称付けたのではないかと勘繰ってしまう。
……。
それと、小沢氏は人物としての魅力はどうなのだろう、と思ったりする。
自民党と自由党の連立の際、当時の自由党の党首であった小沢氏に対し、「小渕首相は小沢にナメられているんだ」といった話を聞いた事がある。
その意味するところは未だによく解かっていないのだが、あるテレビ番組で扇千景氏が「小渕さんを助けると言っていたのに、言っている事とやっている事が違う」といったような事を言っていた記憶がある。そういうのもあって自由党から分裂し保守党に分裂した、というような事もたしか言っていた。
思想面・政策面はどうかとなれば、よく解からないところがある。というのは、「小沢さんのやりたかった事は、小泉さんがやった」といいった話を聞いた事がある。実際、かつての小沢氏は思想面・政策面においては小泉氏に近いところがあったものだと私は思っている。だが、現在は違うようだ。考えが変わるという事は人間にはあるだろうからその事については悪いものと断定まではしない。ただ、私が小沢氏に好意的に思っていないためなのか、世論に合わせているが故に自分の意見が変わってしまうという事なのかと、そのように捉えてしまう。
昨今では、民主党の党首を辞任すると突然言ったが、辞任を撤回するそうである。こうした行動をとるのは私にはよく解からないが、その方面に長けた識者の中には的確な事を言っている人はいるのだろう。
2007年07月02日
【映画】ウォータームーン(1989年公開)
映画「ウォータームーン」において、「生きて生きて生きまくれ」、「命は生きるために流れている」といった言葉が飛び出し、そういった言葉に対して、自殺を考える子供に言いたい」であるとか命に対する希薄になっている今だからこそ噛み締めたいといった感想があるようなのだが、私はそういう捉え方に疑問を抱いてしまう。
この映画には「私の角膜をあの人に移植してくれ」といった感じの台詞や手術室から脱走する場面があるが、「私は死にたくない。良い医者を頼む。カネなら幾らでもある」といった台詞は吐かれてはいない。
故に私が思うに、単に生きながらえる事や自堕落な生…言い換えれば生命至上主義を称揚した映画ではないのである。かといって誰も彼もに対し自殺を強要しているわけでもない。だが、自己犠牲精神とそれに基づく行為が自殺的であるという事であれば、「義の有する自己犠牲・自殺的行為」においては負価値のものとしては扱ってはいないのではないか。
それ故思うに、この場合の「生きる」は、「善く生きる、正しく生きる、強く逞しく生きる」などといった含意があるのだと考え、そのような感じで捉えておくのが良いのではないか。それとおまけに言えば、「善く生きる、正しく生きる、強く逞しく生きる」事は困難がつきまとうと考えられるが、そうでありながらも、そのようにあろうと努めるのが大事なのであろう。
スタッフ
•監督:工藤栄一
•プロデューサー:青木勝彦 / 森田秀美
•原案:長渕剛
•脚本:丸山昇一
•企画:黒澤満 / 後藤由多加
•撮影:仙元誠三
•音楽プロデューサー:山里剛 / 高桑忠男
•音楽監督:長渕剛
•美術:今村力
•編集:川島章正
•録音:細井正次
•スクリプター:大川奘一郎 / セントラルアーツ
•スチール:久井田誠
•助監督:伊藤裕彰
•照明:渡辺三雄
[編集] サウンド
•主題歌『しょっぱい三日月の夜』
作詞:長渕剛
作曲:長渕剛
編曲:瀬尾一三
歌:長渕剛
[編集] キャスト
•竜雲:長渕剛
•古清水鹿野子:松坂慶子
•奥野康雄:小林稔侍
•津久井忠:清水紘治
•広川健三:誠直也
•栗林政治:菅田俊
•知念:萩原聖人
•二宮亮子:金沢碧
•石原一郎:成田三樹夫
•木村宗禅:垂水悟郎
•古清水淑江:岩崎加根子
この映画には「私の角膜をあの人に移植してくれ」といった感じの台詞や手術室から脱走する場面があるが、「私は死にたくない。良い医者を頼む。カネなら幾らでもある」といった台詞は吐かれてはいない。
故に私が思うに、単に生きながらえる事や自堕落な生…言い換えれば生命至上主義を称揚した映画ではないのである。かといって誰も彼もに対し自殺を強要しているわけでもない。だが、自己犠牲精神とそれに基づく行為が自殺的であるという事であれば、「義の有する自己犠牲・自殺的行為」においては負価値のものとしては扱ってはいないのではないか。
それ故思うに、この場合の「生きる」は、「善く生きる、正しく生きる、強く逞しく生きる」などといった含意があるのだと考え、そのような感じで捉えておくのが良いのではないか。それとおまけに言えば、「善く生きる、正しく生きる、強く逞しく生きる」事は困難がつきまとうと考えられるが、そうでありながらも、そのようにあろうと努めるのが大事なのであろう。
スタッフ
•監督:工藤栄一
•プロデューサー:青木勝彦 / 森田秀美
•原案:長渕剛
•脚本:丸山昇一
•企画:黒澤満 / 後藤由多加
•撮影:仙元誠三
•音楽プロデューサー:山里剛 / 高桑忠男
•音楽監督:長渕剛
•美術:今村力
•編集:川島章正
•録音:細井正次
•スクリプター:大川奘一郎 / セントラルアーツ
•スチール:久井田誠
•助監督:伊藤裕彰
•照明:渡辺三雄
[編集] サウンド
•主題歌『しょっぱい三日月の夜』
作詞:長渕剛
作曲:長渕剛
編曲:瀬尾一三
歌:長渕剛
[編集] キャスト
•竜雲:長渕剛
•古清水鹿野子:松坂慶子
•奥野康雄:小林稔侍
•津久井忠:清水紘治
•広川健三:誠直也
•栗林政治:菅田俊
•知念:萩原聖人
•二宮亮子:金沢碧
•石原一郎:成田三樹夫
•木村宗禅:垂水悟郎
•古清水淑江:岩崎加根子
2007年06月29日
【本、CD、DVD】趣味開き
自分が購入したりレンタルした本やCDやDVDの一部公開。
<本>
日本フォーク私的大全 なぎら健壱
図解雑学 刑法 船山泰範
図解雑学 民法 鎌乃邦樹
国民の道徳 西部邁
ヤクザ大全 山平重樹
<音楽CD>
Vocallies 久宝留理子
フルーツ 佐野元春
Distnce 宇多田ヒカル
Hello 岡本真夜
村田英雄全曲集 村田英雄
<DVD>
スウィングガールズ 主演 上野樹里
あずみ2 主演 上戸彩
全日本プロレスコンプリートファイル2006 1stステージ
<本>
日本フォーク私的大全 なぎら健壱
図解雑学 刑法 船山泰範
図解雑学 民法 鎌乃邦樹
国民の道徳 西部邁
ヤクザ大全 山平重樹
<音楽CD>
Vocallies 久宝留理子
フルーツ 佐野元春
Distnce 宇多田ヒカル
Hello 岡本真夜
村田英雄全曲集 村田英雄
<DVD>
スウィングガールズ 主演 上野樹里
あずみ2 主演 上戸彩
全日本プロレスコンプリートファイル2006 1stステージ
2007年06月24日
エンターテインメイントのありよう
「ものぐさ言行録」のえいじさん、「亡国の唄を聞け」汗だくさんとの合同企画。
同テーマで同日同時刻にブログ記事をアップするという試み。
詳しくはこちら 「お題」のための予定地(仮) @ ウィキ - トップページ
まずはとある将棋雑誌に書かれてあった話をしたい。その将棋雑誌には、ハンサムだとか美人だとかとファンに言われた事のある男性棋士と女流棋士に話が書かれてあった。
興味深かったのは、その男性棋士と女流棋士がハンサムや美人とか言われる事が嬉しかったなどという事ではなく、その逆で、そう言われるのが嫌だったのだという。
その書かれている内容で特に印象が残っているのは、正確な一字一句までは忘れたが、「可愛いければ将棋は弱くてもいいという人がいるが、それで本人が喜ぶと思っているのか」といった一文であった。そして私にはその一文に筆者の怒りを感じたものであった。
そしてその事を、私は女子フィギュアの安藤美姫選手を見るとよく思い出すのである。あるとき安藤美姫選手は「私は芸能人とは違う」と言っていたが、それは容姿の事だとかそういうのを言われるのが嫌だったのではないかと私にはそのように思えてきたりするのである。
とにもかくにも思うに、まるで当然の事をいうようだが、気持ちよく選手をプレーさせる環境形成は大事であろう。そしてその環境形成は、観客やファンといった人たちも関係してくるのではないかと思う。
例えば私には好めない人というのがいるわけだが、私はそんな人のために頑張りたくはない、という感情があったりする。だからつまり、そのような観客やファンによって支持されているのであれば、それは選手の活力減退要因の一つとなりうると思われるし、気持ちよく選手をプレーさせる環境形成の疎外要因となるのではないかと思う。
ではそれを解消するためにはどうすればよいか。思いつくのは、選手を理解する事、が一つのあるのではないかと思う。選手の事を理解せずに要求をしたりどうこう言ったりするのは、言うなれば強姦的な行為なのではないか―。
それと思う事をもう一つ。オリンピックにおいて選手が「自分のために頑張ったと言うのではなく、国のために頑張ったと言うべきだ」といったような事を言う人がいる。それはそれで悪くはないと思っている。
だが思う事を言えば、それが真っ当な観客・ファンに支持されていないのであれば、国のために頑張ったなどと言いたくない心情になるのではないだろうか。それにオリンピックというのは、外国ではどうかは詳しくは知らないが、昨今の日本においては、選手理解の姿勢よりも自国の選手が勝った負けたという事が私は強調されすぎなのではないかと思うのだ。だから私は選手が「日本のために頑張った」といった発言をしなくても、感情の次元においては、怒る気は全くせず容認したくなってきたりもする。
はてさてそのように書けば、これを読んでいる人からは私を左翼ではないかと思う人がいるかもしれない。別に私の思想が他人からどう思われようとたいした気にはしていないが…ともかく、なにやら少々ややこしい言い方になってしまっていると思うが、私は「自分のために頑張った」と言うべきであるとか「国のために頑張った」と言うべきではない、とは言っていない。選手に対し「国のために頑張ったというべきだ」といった類の主張する前の大事なものが忘れているのではないかと思うのである。その大事なものの一つが選手理解なのではないかと私は言っているだけなのだ。
……。
次は、とあるニュースから話をしてみようと思う。
といっても詳しくは忘れたのだが、サッカーにおいて、ブラジルのサポーターを例に出し、「サポーターは厳しくあるべきだ」と言った人がいたという記憶はある。その他に何かを言っていたと記憶しているが覚えていない。
ともかく、そこで私が思った事を言えば、「サポーターは厳しくあるべきだ」というのはブラジルであれば問題は無いのであろう、という事であった。
というのは、ブラジルという国はサッカーが盛んであると聞くし、子供の頃からサッカーを親しんだりしている人が多いというのを聞いた事がある。だとすれば、ブラジル人の多くは自身でサッカーを体験しているだろうしそういう環境があると思われるので、選手理解がはかどるのではないかと思う。
はてさて、では何故に「サポーターは厳しくあるべきだ」なのであろうか。私は先ほど「気持ちよく選手をプレーさせる環境形成は大事であろう」とは書いた。だが、選手が不真面目であったりやる気のないといった類のプレーはよろしくないものであろう。とある何か特別な理由があれば寛容できる余地はあるだろうが、選手が不真面目であったりやる気のないといった類のプレーは観客やファンに失礼であろうし、選手の道徳問題であろう。あたかも当然の事を言えば、選手は良いプレーを提供しようと努めるべきであろう。つまりはそのために、「サポーターは厳しくあるべきだ」というのは大事であると思う。
だが、「選手理解を有する厳しさ」と「選手理解無き厳しさ」では違う、と私は思っている。
そこでもう一例を出せば、テレビのニュースでとあるサッカーの試合でJ2へと降格してしまうかしまわないかの試合であったのだろうか、その時あるサポーターが…酒を飲んでいたのだろうか…強い口調で「お前ら、負けたらどうなっているか分かっているんだろうな!」と言っていた姿がテレビに映し出されていた。
ちなみに私はサッカーは自慢できるほど詳しいと言える自信もないし、そのチームについても詳しいわけでもない。だから、そのサポーターが言っている事は正当であるという理屈も存在するのかもしれない。そうでありながらもその時に私が思った事は、そのサポーターはちっとも選手をサポートしていないのではないか、という事であった。
そのサポーターは実際において良いものか悪いものかという評価はともかくとしよう。ともかく言いたいのは、私は先ほど「サポーターは厳しくあるべきだ」というのは大事であると思うと書いたが、「私には好めない人というのがいるわけだが、私はそんな人のために頑張りたくはない、という感情があったりする。だからつまり、そのような観客やファンによって支持されているのであれば、それは選手の活力減退要因の一つとなりうると思われるし、気持ちよく選手をプレーさせる環境形成の疎外要因となるのではないかと思う」とも書いた。だからつまり、厳しさにも良いものと悪いものがあると考えられるのではないかと思う。
そこで思う事を書けば、「選手理解に基づいた上での声援と批判」、それが大事なのではないかと思う。そしてそれが、悪しきエンターテインメントを退け良きエンターテインメイントを支えるものとなるのではないか。
……。
選手理解(言い換えて他者理解としてもいいだろう)が大事ではないかと書いたが、ではどのように選手を理解すればよいのかという事について今度は書いてみたい。
何故にその事について書いてみようと思ったのかと言えば、理解したと思っても、それが思い込みや勘違いや誤解である可能性があるわけだ。そしてそれによって生じる弊害があるのではないかと思ったのである。思い込み・勘違い・誤解によって失敗したという体験談は探せば数多くあるのであろう。
思い込み・勘違い・誤解を退けるためにはどうすればよいかと思いつく事を言えば、慎重さや思慮や良い意味での知的好奇心が大事になるのではないかと思う。だが、慎重さ・思慮・良い意味での知的好奇心により、臆病や迷いへと負価値へ転落する事も考えうる。そうならないためには、勇気や判断や行動といったものが大事になるであろう。そしてそれらは…繰り返しになってしまうが、思い込み・勘違い・誤解に注意を払う事である。それと思うにこの作業というのは、終わり無く果ての無いものなのであろうとも思ったりもする。
そのための具体的な方法は何かと考えれば…考えればたくさん抽出されてくるだろうが、私が思うものを一つ上げてみようと思う。
スポーツジャーナリストの二ノ宮清純氏が、プロ野球選手と話をする時に、野球の球やバットを持たせると喜んでそのプロ野球選手は話をする、というような事を言っていた。
それは何故であろうか。当然な事を言うようだが、プロ野球選手は野球の事が好きなためであるからだと思う。
そこで思う事を書こう。状況と場合にもよるであろうが、野球選手ならば野球の事、サッカー選手ならばサッカーの事、フィギュア選手ならばフィギュアの事、将棋の棋士であれば将棋の事…の話を引き出したり、興味を持ったりするのが大事なのではないだろうか。
私はテレビを見るとそのような事をよく思うのである。何故かといえば、そのような話がテレビおいてさほど為されているとは思われないのである。最近ではナントカ王子という呼称が流行っているように見受けられるが、そのようなものは多くの人が飽きているだろうし、選手の方もさほど嬉しくはないのではないだろうか。そんな事よりも、他に取材をし提供していった方が良いものがあるのではないかと私は思ってしまう。
それに、プロ選手の本業の話を引き出せば、それは人生や社会全体において通用する哲学や姿勢や方法などが編み出す事もできるのではないだろうか。そしてそれはエンターテインメイントの枠内にとどまらず、公益にもなりうるであろう。
だが残念ながらそうした公益的要素の伝導率・抽出率・解釈率は低いもののように私は見込んでいる。では何故にそうなるのであろうか。
それは思うに、エンターテインメイントというのは快楽を提供していくものであるからだと思う。だからつまり、つまらないものや苦痛だと思われている事柄に対しての提供についてはエンターテインメイントはおろそかになりがちではないかと思う。
つまらないものや苦痛だと思われている事柄とは何かと考えれば、それは「慎重さ・思慮・良い意味での知的好奇心・道徳・法律」といったものになってくるのではないかと思う。それが私のとってはエンターテインメイントにおいておろそかになりがちであると思われるため…現実的・経済的な事情はあるであろうが…その事についての意識付けや方法を忘れぬように努めるのが大事ではないかと思う。
同テーマで同日同時刻にブログ記事をアップするという試み。
詳しくはこちら 「お題」のための予定地(仮) @ ウィキ - トップページ
まずはとある将棋雑誌に書かれてあった話をしたい。その将棋雑誌には、ハンサムだとか美人だとかとファンに言われた事のある男性棋士と女流棋士に話が書かれてあった。
興味深かったのは、その男性棋士と女流棋士がハンサムや美人とか言われる事が嬉しかったなどという事ではなく、その逆で、そう言われるのが嫌だったのだという。
その書かれている内容で特に印象が残っているのは、正確な一字一句までは忘れたが、「可愛いければ将棋は弱くてもいいという人がいるが、それで本人が喜ぶと思っているのか」といった一文であった。そして私にはその一文に筆者の怒りを感じたものであった。
そしてその事を、私は女子フィギュアの安藤美姫選手を見るとよく思い出すのである。あるとき安藤美姫選手は「私は芸能人とは違う」と言っていたが、それは容姿の事だとかそういうのを言われるのが嫌だったのではないかと私にはそのように思えてきたりするのである。
とにもかくにも思うに、まるで当然の事をいうようだが、気持ちよく選手をプレーさせる環境形成は大事であろう。そしてその環境形成は、観客やファンといった人たちも関係してくるのではないかと思う。
例えば私には好めない人というのがいるわけだが、私はそんな人のために頑張りたくはない、という感情があったりする。だからつまり、そのような観客やファンによって支持されているのであれば、それは選手の活力減退要因の一つとなりうると思われるし、気持ちよく選手をプレーさせる環境形成の疎外要因となるのではないかと思う。
ではそれを解消するためにはどうすればよいか。思いつくのは、選手を理解する事、が一つのあるのではないかと思う。選手の事を理解せずに要求をしたりどうこう言ったりするのは、言うなれば強姦的な行為なのではないか―。
それと思う事をもう一つ。オリンピックにおいて選手が「自分のために頑張ったと言うのではなく、国のために頑張ったと言うべきだ」といったような事を言う人がいる。それはそれで悪くはないと思っている。
だが思う事を言えば、それが真っ当な観客・ファンに支持されていないのであれば、国のために頑張ったなどと言いたくない心情になるのではないだろうか。それにオリンピックというのは、外国ではどうかは詳しくは知らないが、昨今の日本においては、選手理解の姿勢よりも自国の選手が勝った負けたという事が私は強調されすぎなのではないかと思うのだ。だから私は選手が「日本のために頑張った」といった発言をしなくても、感情の次元においては、怒る気は全くせず容認したくなってきたりもする。
はてさてそのように書けば、これを読んでいる人からは私を左翼ではないかと思う人がいるかもしれない。別に私の思想が他人からどう思われようとたいした気にはしていないが…ともかく、なにやら少々ややこしい言い方になってしまっていると思うが、私は「自分のために頑張った」と言うべきであるとか「国のために頑張った」と言うべきではない、とは言っていない。選手に対し「国のために頑張ったというべきだ」といった類の主張する前の大事なものが忘れているのではないかと思うのである。その大事なものの一つが選手理解なのではないかと私は言っているだけなのだ。
……。
次は、とあるニュースから話をしてみようと思う。
といっても詳しくは忘れたのだが、サッカーにおいて、ブラジルのサポーターを例に出し、「サポーターは厳しくあるべきだ」と言った人がいたという記憶はある。その他に何かを言っていたと記憶しているが覚えていない。
ともかく、そこで私が思った事を言えば、「サポーターは厳しくあるべきだ」というのはブラジルであれば問題は無いのであろう、という事であった。
というのは、ブラジルという国はサッカーが盛んであると聞くし、子供の頃からサッカーを親しんだりしている人が多いというのを聞いた事がある。だとすれば、ブラジル人の多くは自身でサッカーを体験しているだろうしそういう環境があると思われるので、選手理解がはかどるのではないかと思う。
はてさて、では何故に「サポーターは厳しくあるべきだ」なのであろうか。私は先ほど「気持ちよく選手をプレーさせる環境形成は大事であろう」とは書いた。だが、選手が不真面目であったりやる気のないといった類のプレーはよろしくないものであろう。とある何か特別な理由があれば寛容できる余地はあるだろうが、選手が不真面目であったりやる気のないといった類のプレーは観客やファンに失礼であろうし、選手の道徳問題であろう。あたかも当然の事を言えば、選手は良いプレーを提供しようと努めるべきであろう。つまりはそのために、「サポーターは厳しくあるべきだ」というのは大事であると思う。
だが、「選手理解を有する厳しさ」と「選手理解無き厳しさ」では違う、と私は思っている。
そこでもう一例を出せば、テレビのニュースでとあるサッカーの試合でJ2へと降格してしまうかしまわないかの試合であったのだろうか、その時あるサポーターが…酒を飲んでいたのだろうか…強い口調で「お前ら、負けたらどうなっているか分かっているんだろうな!」と言っていた姿がテレビに映し出されていた。
ちなみに私はサッカーは自慢できるほど詳しいと言える自信もないし、そのチームについても詳しいわけでもない。だから、そのサポーターが言っている事は正当であるという理屈も存在するのかもしれない。そうでありながらもその時に私が思った事は、そのサポーターはちっとも選手をサポートしていないのではないか、という事であった。
そのサポーターは実際において良いものか悪いものかという評価はともかくとしよう。ともかく言いたいのは、私は先ほど「サポーターは厳しくあるべきだ」というのは大事であると思うと書いたが、「私には好めない人というのがいるわけだが、私はそんな人のために頑張りたくはない、という感情があったりする。だからつまり、そのような観客やファンによって支持されているのであれば、それは選手の活力減退要因の一つとなりうると思われるし、気持ちよく選手をプレーさせる環境形成の疎外要因となるのではないかと思う」とも書いた。だからつまり、厳しさにも良いものと悪いものがあると考えられるのではないかと思う。
そこで思う事を書けば、「選手理解に基づいた上での声援と批判」、それが大事なのではないかと思う。そしてそれが、悪しきエンターテインメントを退け良きエンターテインメイントを支えるものとなるのではないか。
……。
選手理解(言い換えて他者理解としてもいいだろう)が大事ではないかと書いたが、ではどのように選手を理解すればよいのかという事について今度は書いてみたい。
何故にその事について書いてみようと思ったのかと言えば、理解したと思っても、それが思い込みや勘違いや誤解である可能性があるわけだ。そしてそれによって生じる弊害があるのではないかと思ったのである。思い込み・勘違い・誤解によって失敗したという体験談は探せば数多くあるのであろう。
思い込み・勘違い・誤解を退けるためにはどうすればよいかと思いつく事を言えば、慎重さや思慮や良い意味での知的好奇心が大事になるのではないかと思う。だが、慎重さ・思慮・良い意味での知的好奇心により、臆病や迷いへと負価値へ転落する事も考えうる。そうならないためには、勇気や判断や行動といったものが大事になるであろう。そしてそれらは…繰り返しになってしまうが、思い込み・勘違い・誤解に注意を払う事である。それと思うにこの作業というのは、終わり無く果ての無いものなのであろうとも思ったりもする。
そのための具体的な方法は何かと考えれば…考えればたくさん抽出されてくるだろうが、私が思うものを一つ上げてみようと思う。
スポーツジャーナリストの二ノ宮清純氏が、プロ野球選手と話をする時に、野球の球やバットを持たせると喜んでそのプロ野球選手は話をする、というような事を言っていた。
それは何故であろうか。当然な事を言うようだが、プロ野球選手は野球の事が好きなためであるからだと思う。
そこで思う事を書こう。状況と場合にもよるであろうが、野球選手ならば野球の事、サッカー選手ならばサッカーの事、フィギュア選手ならばフィギュアの事、将棋の棋士であれば将棋の事…の話を引き出したり、興味を持ったりするのが大事なのではないだろうか。
私はテレビを見るとそのような事をよく思うのである。何故かといえば、そのような話がテレビおいてさほど為されているとは思われないのである。最近ではナントカ王子という呼称が流行っているように見受けられるが、そのようなものは多くの人が飽きているだろうし、選手の方もさほど嬉しくはないのではないだろうか。そんな事よりも、他に取材をし提供していった方が良いものがあるのではないかと私は思ってしまう。
それに、プロ選手の本業の話を引き出せば、それは人生や社会全体において通用する哲学や姿勢や方法などが編み出す事もできるのではないだろうか。そしてそれはエンターテインメイントの枠内にとどまらず、公益にもなりうるであろう。
だが残念ながらそうした公益的要素の伝導率・抽出率・解釈率は低いもののように私は見込んでいる。では何故にそうなるのであろうか。
それは思うに、エンターテインメイントというのは快楽を提供していくものであるからだと思う。だからつまり、つまらないものや苦痛だと思われている事柄に対しての提供についてはエンターテインメイントはおろそかになりがちではないかと思う。
つまらないものや苦痛だと思われている事柄とは何かと考えれば、それは「慎重さ・思慮・良い意味での知的好奇心・道徳・法律」といったものになってくるのではないかと思う。それが私のとってはエンターテインメイントにおいておろそかになりがちであると思われるため…現実的・経済的な事情はあるであろうが…その事についての意識付けや方法を忘れぬように努めるのが大事ではないかと思う。
2007年06月07日
【読書感想】渡辺淳一「鈍感力」
渡辺淳一氏の著書「鈍感力」を読んだ。
渡辺淳一氏が「鈍感力」を執筆した動機を勝手に想像すれば、この世には敏感であり過ぎるが故に損をしている人が多いのではないかと渡辺淳一氏は感じたためなのではないかと思った。
この本は、鈍感であった方が良い場合についての事が多く書かれている。鈍感であった方が悪い場合もあるというような事も書かれているが、それは本の頁数に比べ鈍感が良い場合よりも鈍感が悪い場合は少ない。
ともかく私としては、「気にしなくてもよいものは鈍感で、気にすべきものは敏感で」と考えておくことにした。
渡辺淳一氏が「鈍感力」を執筆した動機を勝手に想像すれば、この世には敏感であり過ぎるが故に損をしている人が多いのではないかと渡辺淳一氏は感じたためなのではないかと思った。
この本は、鈍感であった方が良い場合についての事が多く書かれている。鈍感であった方が悪い場合もあるというような事も書かれているが、それは本の頁数に比べ鈍感が良い場合よりも鈍感が悪い場合は少ない。
ともかく私としては、「気にしなくてもよいものは鈍感で、気にすべきものは敏感で」と考えておくことにした。
2007年06月06日
最低限の生活保障は、自堕落な生、活力減退を防ぐ方法の一つ。
年金支給漏れ問題により、社会保険庁に電話相談が殺到したのだという。
年金については私は詳しくないが、年金がしっかりと支給されなければどのような問題が生じうるのだろうか。
しっかりと収めているのに支給されないという事になるのであれば、何のために収めてきたのか、老後はどうなるのか、という事になるのであろう。そしてそれは、真面目にやっているのに報われないといった類なものになりうるだろうから、真面目に働く気力を失わせる事に繋がるのではないかと思う。言い換えるならば、自堕落な生、活力減退の要因になるのではないか。
だが逆に、真面目や努力をしていないのにも関わらず保護をするのは、これはこれで自堕落な生、活力減退の要因となるのであろう。「頑張っても報われない」というのも問題であろうが、「頑張らなくても報われる」のも問題があるであろう。
となれば、「最低限の生活保障」が自堕落な生、活力減退を防ぐ一つの方法になるのではないかと思う。
そこで最後に活力について少し触れれば、活力というものは善悪の二分類ができるのではないかと私は考えている。犯罪・悪徳を為す事が活力の表れと見なす事ができるという事であれば、無際限に活力礼賛はできないのであろうと思う。
年金については私は詳しくないが、年金がしっかりと支給されなければどのような問題が生じうるのだろうか。
しっかりと収めているのに支給されないという事になるのであれば、何のために収めてきたのか、老後はどうなるのか、という事になるのであろう。そしてそれは、真面目にやっているのに報われないといった類なものになりうるだろうから、真面目に働く気力を失わせる事に繋がるのではないかと思う。言い換えるならば、自堕落な生、活力減退の要因になるのではないか。
だが逆に、真面目や努力をしていないのにも関わらず保護をするのは、これはこれで自堕落な生、活力減退の要因となるのであろう。「頑張っても報われない」というのも問題であろうが、「頑張らなくても報われる」のも問題があるであろう。
となれば、「最低限の生活保障」が自堕落な生、活力減退を防ぐ一つの方法になるのではないかと思う。
そこで最後に活力について少し触れれば、活力というものは善悪の二分類ができるのではないかと私は考えている。犯罪・悪徳を為す事が活力の表れと見なす事ができるという事であれば、無際限に活力礼賛はできないのであろうと思う。
2007年06月05日
談合批判は、競争による弊害を見定めた上で。
最近、談合事件のニュースを多く見かけるようになった。
談合によって生じる弊害については、それはそれで解消に努めていくべきなのであろう。
だが、談合否定というのは競争肯定の思想に繋がっていくのではないかと思う。そしてその競争は競争で弊害が考えうることなのではないかと思う。そしてその事については過去に私のブログ「競争過剰→費用削減→品質低下」という連鎖可能性と題して書いたりもした。
そこで思う事を書けば、談合による弊害と競争による弊害を見定めた上で制度設計をするのが大事なのではないか。
だが現状における談合批判は、競争による弊害が軽視されがちであるように思う。
談合によって生じる弊害については、それはそれで解消に努めていくべきなのであろう。
だが、談合否定というのは競争肯定の思想に繋がっていくのではないかと思う。そしてその競争は競争で弊害が考えうることなのではないかと思う。そしてその事については過去に私のブログ「競争過剰→費用削減→品質低下」という連鎖可能性と題して書いたりもした。
そこで思う事を書けば、談合による弊害と競争による弊害を見定めた上で制度設計をするのが大事なのではないか。
だが現状における談合批判は、競争による弊害が軽視されがちであるように思う。
2007年06月04日
改革には、慎重さや冷静さが大事になってくるのではないか。
松岡農水相が自殺したことにより、安倍首相は農水相の後任に赤城氏を要請し、〈1〉攻めの農政改革を進め体質の強い農業を築いていく〈2〉農林水産物の輸出1兆円の目標に向けてきちんと対応する〈3〉世界貿易機関(WTO)交渉等にしっかり取り組む等を安倍首相は赤城氏に指示したのだという。
昨今では…かなり以前からでもあろうが…政治とカネの事はよく問題にされる。それはそれで大事なのであろうが、一方でこうした動きがある事は注目された方がよいのではないかと思ったりする。
ここで私の改革について思う事を言えば、改革というのは改善と改悪の両方の可能性がある。改悪にしないためには、慎重さや冷静さといったのもが大事になるのではないかと思う。
だが昨今の風潮では、改革という言葉は強調されるが、改革というものに対して慎重さや冷静さといった気配は感じられてこないのではないか。となれば、私は改悪可能性が高いのではないかと私は思ってしまうわけである。
それと、赤城氏に対して、「若いのに手堅さが前面に出ており、押しが足りない」との見方があるようである。
思う事を書けば、「若さゆえの過ち」という言葉があるように、若さというのは年長者に比べて失敗可能性が高いものなのではないか。となれば、若いという事であれば慎重さや冷静さというのが大事になってくるのではないかと思う。
では逆に年長者であれば、若者に比べて失敗の怖さに気づいているのではないかと思うので、臆病になりがちなのではないか。となれば、年長者においては勇気が大事になってくるのではないかと思う。
赤城氏が「若いのに手堅さが前面に出ており、押しが足りない」という事が「赤城氏には臆病気質があって決断がなかなかできない」という事であるとし実際にそうなのであれば、私はその見方に問題はないと思う。
だが赤城氏が「慎重や冷静な判断を心がける人物である」という事であれば、「若いのに手堅さが前面に出ており、押しが足りない」という見方には問題があるのではないかと思う。
参考 後任農相に赤城氏、安倍首相が正式要請(読売新聞)。
http://www.yomiuri.co.jp/politics/news/20070601i204.htm
昨今では…かなり以前からでもあろうが…政治とカネの事はよく問題にされる。それはそれで大事なのであろうが、一方でこうした動きがある事は注目された方がよいのではないかと思ったりする。
ここで私の改革について思う事を言えば、改革というのは改善と改悪の両方の可能性がある。改悪にしないためには、慎重さや冷静さといったのもが大事になるのではないかと思う。
だが昨今の風潮では、改革という言葉は強調されるが、改革というものに対して慎重さや冷静さといった気配は感じられてこないのではないか。となれば、私は改悪可能性が高いのではないかと私は思ってしまうわけである。
それと、赤城氏に対して、「若いのに手堅さが前面に出ており、押しが足りない」との見方があるようである。
思う事を書けば、「若さゆえの過ち」という言葉があるように、若さというのは年長者に比べて失敗可能性が高いものなのではないか。となれば、若いという事であれば慎重さや冷静さというのが大事になってくるのではないかと思う。
では逆に年長者であれば、若者に比べて失敗の怖さに気づいているのではないかと思うので、臆病になりがちなのではないか。となれば、年長者においては勇気が大事になってくるのではないかと思う。
赤城氏が「若いのに手堅さが前面に出ており、押しが足りない」という事が「赤城氏には臆病気質があって決断がなかなかできない」という事であるとし実際にそうなのであれば、私はその見方に問題はないと思う。
だが赤城氏が「慎重や冷静な判断を心がける人物である」という事であれば、「若いのに手堅さが前面に出ており、押しが足りない」という見方には問題があるのではないかと思う。
参考 後任農相に赤城氏、安倍首相が正式要請(読売新聞)。
http://www.yomiuri.co.jp/politics/news/20070601i204.htm
2007年06月02日
松岡農水相の自殺と農政改革
松岡利勝農水相が自殺したという事をニュースで知った。
その自殺の真相は私は今のところこれといった興味はないし、またこれといって調べたわけでもない。ただそのニュースを聞いて、雑誌「わしずむ21号」の島村奈津氏が書いた農政改革の話を思い出した。
私の勝手な想像を言えば、松岡利勝農水相についてはよく知らないのではあるが、松岡利勝農水相はその農政改革には否定側の人ではなかっただろうか。だが、松岡農水相の事情上、嫌々ながら農政改革を推し進めなくてならなかった。それをまとめて言えば、「自分の思想と自分の行動の不一致」により悩み自殺に至ってしまったのではないだろうか、と思った。
とりあえずここで言いたいのは、農政改革というものがあるという事を国民は知っていた方がよいのではないかといったぐらいな事である。
その自殺の真相は私は今のところこれといった興味はないし、またこれといって調べたわけでもない。ただそのニュースを聞いて、雑誌「わしずむ21号」の島村奈津氏が書いた農政改革の話を思い出した。
私の勝手な想像を言えば、松岡利勝農水相についてはよく知らないのではあるが、松岡利勝農水相はその農政改革には否定側の人ではなかっただろうか。だが、松岡農水相の事情上、嫌々ながら農政改革を推し進めなくてならなかった。それをまとめて言えば、「自分の思想と自分の行動の不一致」により悩み自殺に至ってしまったのではないだろうか、と思った。
とりあえずここで言いたいのは、農政改革というものがあるという事を国民は知っていた方がよいのではないかといったぐらいな事である。
2007年05月10日
【松坂VSイチロー】低レベルであった世紀の一戦
1、プロ野球ニュースでどこまで分かるか。
何年か前に、時間にして1、2分ぐらいなものであったと思うが、テレビのプロ野球ニュースで巨人の上原投手が5失点だったか、それをテレビのニュースで知った。
このように書けば、上原投手は不出来であったと思われるかもしれない。だが私は、そのニュースを見て、「これは正捕手の阿部ではないのであろう。おそらく、阿部捕手は怪我をして試合に出場していないのではないか」と思った。後に調べてみると、実際にそうであった。
何故にそう思ったのかといえば、私はそのニュースを見て「配球に問題があるのではないか」と思ったためである。何故に配球に問題があると思ったのかというと、上原投手はキャッチャーミットにきちんと投球しているのにも関わらず、その球がことごとく打たれていたためである。だからつまり、配球に問題があるのではないか、と思ったわけだ。
そしてそのような問題のある配球を、阿部捕手がするとは思えなかった。それ故に「これは正捕手の阿部ではないのであろう。おそらく、阿部捕手は怪我をして試合に出場していないのではないか」と思ったわけだ。
そういえば、あるサイトによると「阿部は配球が下手だ」という人がいる。実際に阿部捕手はデビューして間もない頃は阿部捕手自身が配球を課題にしていたという話は聞いた事がある。だがそれは、私の見るところによれば今は解消されている。だから思うに、「阿部は配球が下手だ」は昔の常識であると私は考えている。
はてさて、ここで言いたいのは、プロ野球ニュースで「これは正捕手の阿部ではないのであろう。おそらく、阿部捕手は怪我をして試合に出場していないのではないか」という事まで見抜ける事がある、という事である。ちなみに私は野球ファンであるが野球解説者ではない。そこで思う事をいえば、野球解説者はプロ野球ニュースを見ただけで我々が想像しているよりかなり多くの事を見抜く事ができるのであろうと思われた。
ちなみに、私個人としては、こうした事を見抜けるのは気分がよいもので、これが野球観戦の楽しみの一つであったりする。
そこで本日は、このような関連したような事を、最近の事例から語ってみたい。
2、低レベルであった世紀の一戦。
最近では、メジャーリーグでの松坂投手とイチロー選手の対決が世紀の一戦などと騒がれ話題となった。私はメジャーリーグの試合をそんな頻繁には見ていないのであるが、とあるニュースで松坂VSイチローの対決を、全球見ることができた。情報量としては、上記の事柄より多いので、判断材料が多いため楽しめた。
それを見て、私はうちの母ちゃんにだいたいこのような事を語った。
「世紀の一戦だとか騒がれているようだけど、勝負の内容からするとレベルは低い。松坂は本調子ではなく、イチローは不調だったと思う。松坂とイチローの事はよく知らないけど、本来のイチローの調子であれば最低でも1本はヒットは打てたと思う。中には、松坂はイチローの対決に気をとられて他のバッターに打たれたなんていう人がいるようだけど、それは間違いだろう」
そのように見ていたため、私はインターネットでイチロー選手の事を調べていた。何故に調べたかという別の理由を述べれば、もしかするとだが、イチロー選手は今までに無いほどの不調というかスランプというのか、そういう状態に陥っているのではないかという気もしたためである。もう少し言えば、イチロー選手の実力からすれば不調であったとしてもこの試合の松坂投手の投球内容からすれば1本はヒットを打てたのではないかという気もしたわけだ。
そして調べたところによると、その頃はイチロー選手は打率が1割台で不調ではないかと言われていたようである。だが現在は3割台に回復しているようだ。
そこで軽々しいイチロー評になるかもしれないが、「イチローは不調というよりも、絶不調であった」という説が成立するとなれば、そういった事を短期間で克服する事ができるのがイチロー選手の凄さなのではあるまいか。だとすれば、イチロー選手から我々は「短期間の困難克服」を学べるのかもしれない。だが、実際にこの説がどれ程正しいものかはさすがに判断はしかねるので、そのあたりはイチロー選手に詳しい人の評に頼った方がよいだろうと思う。
そこで思い出したついでにいえば、WBC以降において出されたイチロー選手関連本は、その多くは、つまらないものが多いと感じた事がある。私は野球が好きなのでイチロー選手にはそこそこの興味を持っている。それ故にそれらの本を立ち読みしたが、買う気になれなかった。何故かといえば、ラジオでも私とほぼ同様の事を言っていた人がいたが、「イチロー選手以外の選手もやっている事が書いている。だから、イチロー選手しかやっていない特別な事やイチロー選手個人の魅力を見出していない」といったような事である。
私はその本はじっくりと読んでいないために断定的な判断はしないが、立ち読みする限りでは、そのような印象を持った。
3、冷静な解釈は熱狂によって邪魔されるのではないか。
それとある日、メジャーリーグのオープン戦でよいと思うが、その試合で松坂投手が10奪三振を取ったとかという話をとあるニュースで見た。
こう書けば、松坂投手は凄いとか調子が良いと思う人もいるかもしれないが、そのニュースで解説者の張本氏はこのような事を言った。
「あれは、メジャーリーグの選手は松坂を研究していないのだろう。松坂はあんなものじゃないはずだ」
私はメジャーリーグの選手が松坂投手を研究していたかいなかったかはよく分からないが、何故に張本氏がそのような事を言ったかは分かる気がする。
ちなみに言えば、「松坂はあんなものじゃないはずだ」というのは私は同感であった。簡単に言えば、奪三振したものの、投球が高めに多く集まっているように思えたし、甘いコースに投球が多く集まっているように思えたからだ。そういうのもあって、張本氏はそう言ったのではないかと思う。
ついでに言えば、松坂投手は今のところ好結果を残してはいない。だから、張本氏は別に奇異な解説をしたわけではない事はお分かりいただけるのではないだろうか。
それとマスコミは、松坂投手とイチロー選手の対決を散々騒ぎ、今では松坂はどうしたのか、という事に騒いでいるのだろう。だが実は、野球解説者のそのほとんどは松坂投手がこのような結果になる事は断言して予想はしてないまでも、想定の範囲内ではあったであろう。何故ならば、野球解説者ではない私ですらそのような事になる可能性があると想定できる事であったからだ。
だが、そのような事は松坂VSイチローではたいした言われたりしなかったと思うし、そういう事を言うような雰囲気ではなかったと思う。別に強調して「世紀の一戦だとか騒がれているようだけど、勝負の内容からするとレベルは低い。松坂は本調子ではなく、イチローは不調だったと思う」などという事は言う必要は無いとも思ったりするが、思うに、冷静な解釈は熱狂によって邪魔されているという事ではあるまいかという気もしなくはなかった。
4、環境の適応。
では、松坂投手はは何故に今のところ好結果を残せないのであろうか。
とあるニュースでとある外国人記者が言うには、「精神的な部分に問題があるのではないか」というような事であった。私は、それは間違いだと思う。
何故かといえば、そもそもメジャーリーグの行く選手であって相当の期待もされていたわけだから、そのような選手が精神的に弱いとかというのは考えにくいと思う。それに、精神的に弱いのであれば能力的にも低いと考えるのが普通ではないかと思うからだ。だから、「松坂の精神問題説」は可能性として低いと思う。
では何故であろうか。そこで 佐野慈紀「ピカイチ球論!」(25日更新) : 第28回 松坂、井川のほろ苦デビューの所以から一部を以下引用する。
これを聞いて私には思い出す話が二つある。一つは、今はもうその本は無いが、江川卓氏の著書「マウンドの心理学」で、「マウンドはエースに合わせて作られている」という話があったと記憶している。実際にエースに合わせて作られているかどうかは私は本当なのかと思ったりもしているが、それはともかく、どうも球場によってマウンドは違うようなのである。詳しい事は忘れたが、確かマウンドの高さは規定があるがマウンドの傾斜は自由であったとか、あまり自信を持って記憶しているわけではないが、そのような感じであったと思う。
それともう一つ言えば、ある時の日本シリーズ戦で巨人VS西武戦で、解説者の中畑氏だったと思うが、投手予想で「西口投手(←これは記憶違いかもしれない)は東京ドームのマウンドは苦手ですから、松坂投手が登板するでしょう」と別に言いよどんだりとかせず、あっさりそう言ってのけたものと記憶している事を思い出した。この中畑氏の解説が正しかったかどうかは厳密には分からないが、はっきりしているのは、実際に登板したのは松坂投手であったのは確かである。
だから私は、マウンドというのは案外にして馬鹿にできないものと捉えている。だがこの事は、一般的にはさすがに知られていないだろうし、自らを野球ファンと称するものにも案外少ないのではないだろうか。
それとニュースで江川氏によると、メジャーリーグの球は日本の球に比べて手から滑りやすいだとか滑りにくいだとかで松坂投手はまだメジャーリーグの球に不慣れなのではないか、という事を言っていた。
そこで私の見解を申せば、このような松坂投手の「環境不適応説」とでもいうか、それが強く関係していると思う。だから私は、じきにそれは解消されていくのではないかと思うので、いずれ松坂投手は好結果を出すようになってくるのではないかと思う。もしそうでないのであれば、松坂投手が環境に適応するという観点を無視するか、松坂投手のそのそもの投球フォームといった類のものがメジャーのマウンドや球やその他の観点からして不適格であるという事になるのではないだろうか。もし投球フォームを大幅に変えなくてはならないとしたら、これはさすがに時間が多くかかるのではないかと思う。
ちなみにとある外国人記者が「精神的な部分に問題があるのではないか」と言って私はそれは間違いだと思うと言ったが、もしこの外交人記者の言う「精神的な部分」が「松坂投手の性格」の事を含め指しているのだとしたら、私はそれならばあながち間違いでも無いという気がする。これは私の勝手な印象であるかもしれないが、松坂投手というのは他の日本の投手と比べ強気なのではないかという気がするため、自分が正しいと思ったら頑なまでに貫くだとか人の話をあまり素直に聞かないだとか、そういう因果もあるかもしれないという事だ。ついでに言えば、岡島投手は松坂投手に比べて人の話を素直に受け入れそうなところがあるという気がする。
それともう一つ思う事を言えば、外国人記者は「精神的な部分に問題があるのではないか」が何故にそう言ったのかと考えれば、その一つに当然ながら松坂投手が好結果を残していないという事が考えられるが、もう一つは、おそらくその外国人記者はアメリカ在住のために、アメリカに渡ってくる選手の環境の違いの考察していなかったためではないだろうか。おまけに言えば、日本では近年においてアメリカへ行く選手が増えてきたために「環境不適応説」が言われてきたのだとも思う。そしてこの事は、今後において日本からアメリカに渡る選手において大事な点にもなると思うし、また、スポーツに限らずあらゆる事に関しても重要なのではないかとも思ったりする。
そういえば、去年のWBCにおいて「スモールベースボール」なる言葉が使われた。中にはこれを王監督が個人的な感情としてやりたかったとかそういうわけではないと思っている。思うにそれは、「ピッチングやバッティングに比べ、バントと走塁や守備は好不調や環境の変化に左右されにくい」という理由のために採用されたのではないか私は思っている。それと私は少年野球の経験があるが、足が速くいのに野球が下手な人というのはまずいなかった。だから思うに、それもあって足の速い選手を王監督は多く選んだのではあるまいかという気もしなくはなかったりもする。
何年か前に、時間にして1、2分ぐらいなものであったと思うが、テレビのプロ野球ニュースで巨人の上原投手が5失点だったか、それをテレビのニュースで知った。
このように書けば、上原投手は不出来であったと思われるかもしれない。だが私は、そのニュースを見て、「これは正捕手の阿部ではないのであろう。おそらく、阿部捕手は怪我をして試合に出場していないのではないか」と思った。後に調べてみると、実際にそうであった。
何故にそう思ったのかといえば、私はそのニュースを見て「配球に問題があるのではないか」と思ったためである。何故に配球に問題があると思ったのかというと、上原投手はキャッチャーミットにきちんと投球しているのにも関わらず、その球がことごとく打たれていたためである。だからつまり、配球に問題があるのではないか、と思ったわけだ。
そしてそのような問題のある配球を、阿部捕手がするとは思えなかった。それ故に「これは正捕手の阿部ではないのであろう。おそらく、阿部捕手は怪我をして試合に出場していないのではないか」と思ったわけだ。
そういえば、あるサイトによると「阿部は配球が下手だ」という人がいる。実際に阿部捕手はデビューして間もない頃は阿部捕手自身が配球を課題にしていたという話は聞いた事がある。だがそれは、私の見るところによれば今は解消されている。だから思うに、「阿部は配球が下手だ」は昔の常識であると私は考えている。
はてさて、ここで言いたいのは、プロ野球ニュースで「これは正捕手の阿部ではないのであろう。おそらく、阿部捕手は怪我をして試合に出場していないのではないか」という事まで見抜ける事がある、という事である。ちなみに私は野球ファンであるが野球解説者ではない。そこで思う事をいえば、野球解説者はプロ野球ニュースを見ただけで我々が想像しているよりかなり多くの事を見抜く事ができるのであろうと思われた。
ちなみに、私個人としては、こうした事を見抜けるのは気分がよいもので、これが野球観戦の楽しみの一つであったりする。
そこで本日は、このような関連したような事を、最近の事例から語ってみたい。
2、低レベルであった世紀の一戦。
最近では、メジャーリーグでの松坂投手とイチロー選手の対決が世紀の一戦などと騒がれ話題となった。私はメジャーリーグの試合をそんな頻繁には見ていないのであるが、とあるニュースで松坂VSイチローの対決を、全球見ることができた。情報量としては、上記の事柄より多いので、判断材料が多いため楽しめた。
それを見て、私はうちの母ちゃんにだいたいこのような事を語った。
「世紀の一戦だとか騒がれているようだけど、勝負の内容からするとレベルは低い。松坂は本調子ではなく、イチローは不調だったと思う。松坂とイチローの事はよく知らないけど、本来のイチローの調子であれば最低でも1本はヒットは打てたと思う。中には、松坂はイチローの対決に気をとられて他のバッターに打たれたなんていう人がいるようだけど、それは間違いだろう」
そのように見ていたため、私はインターネットでイチロー選手の事を調べていた。何故に調べたかという別の理由を述べれば、もしかするとだが、イチロー選手は今までに無いほどの不調というかスランプというのか、そういう状態に陥っているのではないかという気もしたためである。もう少し言えば、イチロー選手の実力からすれば不調であったとしてもこの試合の松坂投手の投球内容からすれば1本はヒットを打てたのではないかという気もしたわけだ。
そして調べたところによると、その頃はイチロー選手は打率が1割台で不調ではないかと言われていたようである。だが現在は3割台に回復しているようだ。
そこで軽々しいイチロー評になるかもしれないが、「イチローは不調というよりも、絶不調であった」という説が成立するとなれば、そういった事を短期間で克服する事ができるのがイチロー選手の凄さなのではあるまいか。だとすれば、イチロー選手から我々は「短期間の困難克服」を学べるのかもしれない。だが、実際にこの説がどれ程正しいものかはさすがに判断はしかねるので、そのあたりはイチロー選手に詳しい人の評に頼った方がよいだろうと思う。
そこで思い出したついでにいえば、WBC以降において出されたイチロー選手関連本は、その多くは、つまらないものが多いと感じた事がある。私は野球が好きなのでイチロー選手にはそこそこの興味を持っている。それ故にそれらの本を立ち読みしたが、買う気になれなかった。何故かといえば、ラジオでも私とほぼ同様の事を言っていた人がいたが、「イチロー選手以外の選手もやっている事が書いている。だから、イチロー選手しかやっていない特別な事やイチロー選手個人の魅力を見出していない」といったような事である。
私はその本はじっくりと読んでいないために断定的な判断はしないが、立ち読みする限りでは、そのような印象を持った。
3、冷静な解釈は熱狂によって邪魔されるのではないか。
それとある日、メジャーリーグのオープン戦でよいと思うが、その試合で松坂投手が10奪三振を取ったとかという話をとあるニュースで見た。
こう書けば、松坂投手は凄いとか調子が良いと思う人もいるかもしれないが、そのニュースで解説者の張本氏はこのような事を言った。
「あれは、メジャーリーグの選手は松坂を研究していないのだろう。松坂はあんなものじゃないはずだ」
私はメジャーリーグの選手が松坂投手を研究していたかいなかったかはよく分からないが、何故に張本氏がそのような事を言ったかは分かる気がする。
ちなみに言えば、「松坂はあんなものじゃないはずだ」というのは私は同感であった。簡単に言えば、奪三振したものの、投球が高めに多く集まっているように思えたし、甘いコースに投球が多く集まっているように思えたからだ。そういうのもあって、張本氏はそう言ったのではないかと思う。
ついでに言えば、松坂投手は今のところ好結果を残してはいない。だから、張本氏は別に奇異な解説をしたわけではない事はお分かりいただけるのではないだろうか。
それとマスコミは、松坂投手とイチロー選手の対決を散々騒ぎ、今では松坂はどうしたのか、という事に騒いでいるのだろう。だが実は、野球解説者のそのほとんどは松坂投手がこのような結果になる事は断言して予想はしてないまでも、想定の範囲内ではあったであろう。何故ならば、野球解説者ではない私ですらそのような事になる可能性があると想定できる事であったからだ。
だが、そのような事は松坂VSイチローではたいした言われたりしなかったと思うし、そういう事を言うような雰囲気ではなかったと思う。別に強調して「世紀の一戦だとか騒がれているようだけど、勝負の内容からするとレベルは低い。松坂は本調子ではなく、イチローは不調だったと思う」などという事は言う必要は無いとも思ったりするが、思うに、冷静な解釈は熱狂によって邪魔されているという事ではあるまいかという気もしなくはなかった。
4、環境の適応。
では、松坂投手はは何故に今のところ好結果を残せないのであろうか。
とあるニュースでとある外国人記者が言うには、「精神的な部分に問題があるのではないか」というような事であった。私は、それは間違いだと思う。
何故かといえば、そもそもメジャーリーグの行く選手であって相当の期待もされていたわけだから、そのような選手が精神的に弱いとかというのは考えにくいと思う。それに、精神的に弱いのであれば能力的にも低いと考えるのが普通ではないかと思うからだ。だから、「松坂の精神問題説」は可能性として低いと思う。
では何故であろうか。そこで 佐野慈紀「ピカイチ球論!」(25日更新) : 第28回 松坂、井川のほろ苦デビューの所以から一部を以下引用する。
一方の松坂投手は、まだマウンドを自分のものにはできていないようです。特にセットアップになると、制球が定まらなくなるのは、おそらくこうしたマウンドの不慣れによるものだと考えられます。硬いマウンドに対しては、ステップ幅を狭めたり、マウンドをよくなれさせ、踏み込みの位置を自分のいいように掘って調整することで対応していくしかありません。ただ、彼はもともとコントロールがずば抜けていいピッチャーですから、それほど不安視する必要はないでしょう。各スタジアムをひと回りすれば、適応していけると思います。
これを聞いて私には思い出す話が二つある。一つは、今はもうその本は無いが、江川卓氏の著書「マウンドの心理学」で、「マウンドはエースに合わせて作られている」という話があったと記憶している。実際にエースに合わせて作られているかどうかは私は本当なのかと思ったりもしているが、それはともかく、どうも球場によってマウンドは違うようなのである。詳しい事は忘れたが、確かマウンドの高さは規定があるがマウンドの傾斜は自由であったとか、あまり自信を持って記憶しているわけではないが、そのような感じであったと思う。
それともう一つ言えば、ある時の日本シリーズ戦で巨人VS西武戦で、解説者の中畑氏だったと思うが、投手予想で「西口投手(←これは記憶違いかもしれない)は東京ドームのマウンドは苦手ですから、松坂投手が登板するでしょう」と別に言いよどんだりとかせず、あっさりそう言ってのけたものと記憶している事を思い出した。この中畑氏の解説が正しかったかどうかは厳密には分からないが、はっきりしているのは、実際に登板したのは松坂投手であったのは確かである。
だから私は、マウンドというのは案外にして馬鹿にできないものと捉えている。だがこの事は、一般的にはさすがに知られていないだろうし、自らを野球ファンと称するものにも案外少ないのではないだろうか。
それとニュースで江川氏によると、メジャーリーグの球は日本の球に比べて手から滑りやすいだとか滑りにくいだとかで松坂投手はまだメジャーリーグの球に不慣れなのではないか、という事を言っていた。
そこで私の見解を申せば、このような松坂投手の「環境不適応説」とでもいうか、それが強く関係していると思う。だから私は、じきにそれは解消されていくのではないかと思うので、いずれ松坂投手は好結果を出すようになってくるのではないかと思う。もしそうでないのであれば、松坂投手が環境に適応するという観点を無視するか、松坂投手のそのそもの投球フォームといった類のものがメジャーのマウンドや球やその他の観点からして不適格であるという事になるのではないだろうか。もし投球フォームを大幅に変えなくてはならないとしたら、これはさすがに時間が多くかかるのではないかと思う。
ちなみにとある外国人記者が「精神的な部分に問題があるのではないか」と言って私はそれは間違いだと思うと言ったが、もしこの外交人記者の言う「精神的な部分」が「松坂投手の性格」の事を含め指しているのだとしたら、私はそれならばあながち間違いでも無いという気がする。これは私の勝手な印象であるかもしれないが、松坂投手というのは他の日本の投手と比べ強気なのではないかという気がするため、自分が正しいと思ったら頑なまでに貫くだとか人の話をあまり素直に聞かないだとか、そういう因果もあるかもしれないという事だ。ついでに言えば、岡島投手は松坂投手に比べて人の話を素直に受け入れそうなところがあるという気がする。
それともう一つ思う事を言えば、外国人記者は「精神的な部分に問題があるのではないか」が何故にそう言ったのかと考えれば、その一つに当然ながら松坂投手が好結果を残していないという事が考えられるが、もう一つは、おそらくその外国人記者はアメリカ在住のために、アメリカに渡ってくる選手の環境の違いの考察していなかったためではないだろうか。おまけに言えば、日本では近年においてアメリカへ行く選手が増えてきたために「環境不適応説」が言われてきたのだとも思う。そしてこの事は、今後において日本からアメリカに渡る選手において大事な点にもなると思うし、また、スポーツに限らずあらゆる事に関しても重要なのではないかとも思ったりする。
そういえば、去年のWBCにおいて「スモールベースボール」なる言葉が使われた。中にはこれを王監督が個人的な感情としてやりたかったとかそういうわけではないと思っている。思うにそれは、「ピッチングやバッティングに比べ、バントと走塁や守備は好不調や環境の変化に左右されにくい」という理由のために採用されたのではないか私は思っている。それと私は少年野球の経験があるが、足が速くいのに野球が下手な人というのはまずいなかった。だから思うに、それもあって足の速い選手を王監督は多く選んだのではあるまいかという気もしなくはなかったりもする。
2007年04月22日
勝負の前の準備~勝つことの大変さ~
1、久しぶりの将棋

あるとき、久しぶりにネット将棋を指してみた。上図はその時の局面で、先手は私。
当初の予定は中飛車であったが、後手は相振り飛車を選択。それ故、中飛車を指したかったのであるが、相振り飛車において中飛車を選択するのはよくないという話を聞いたこともあって、断念した。
そしてこの局面になって気づいた事を言えば、そういえばいつもはどう指していたのだろうか、と。
この局面自体は何度も経験があったはずなのだが、どういうわけだか、ここに来て迷ってしまった。そして過去を振り返り考えてみると、いつもはだいたいこの局面は私が後手を持って指している事が多いのに気づいた。
それ故に、ここで少々の時間を使う羽目になった。そういえばこの局面で四間飛車にしている人が多かったなと思い、私は▲6八飛とした。けれども、それ以後の指し方が分からず苦労し、結果は負けてしまった。
そこでこの将棋の敗因を考えると、その一つは、私の準備不足であり、実戦の構え方に問題があった。これは今後において将棋を指していくための私の課題の一つである。
2、いろんな戦法を指すことの長所と短所
私はある時期まで、いろんな戦法を指すようにしていた。その思い浮かぶ理由としては四つある。
一つは、同じ戦法ばかり指していると固定観念に捕らわれて強くなるための弊害となるのではないかという事。
二つは、同じ戦法ばかり指していると飽きてきて、将棋を指し続ける活力が減退するのではないかという事。
三つは、自分の指したい戦法が局面によって必ずしもできるというわけではないので、それによって負けが増える可能性があるのではないかという事。
四つは、どの戦法を指してもたいてい序盤で私は劣勢になったり苦しくなったりする事が多いので、どの戦法を指してもたいして変わらないのではないかという事。
そういうのがあって私はいろんな戦法を指すようにしていた。だが、これには弊害があったと今は思ったりしている。
その一つは、私は序盤で時間を使い過ぎてしまうため、終盤で秒読みに追われる事が多い。それに実戦においては、やはり終盤に時間をある程度残しておくのは大事ではないかと思う。
もう一つは、いろんな戦法を指す事にこだわるあまりに、対局相手が得意形に組まれた場合に弱くなる。それに、対局相手がわざわざ私に得意形を教えてくれるわけでもない。
3、勝つ事の大変さ
ではどうするか。思い浮かぶものとしては、自分の得意形を持つという事なのであろう。そうすれば、序盤の劣勢・時間切迫の危機を免れる可能性が高くなる。
だが、いつも自分の得意形になれるとは限らない。となれば、得意形を一つでなく複数持つのが大事になるのではないか。だが、それを拡大しすぎると今度は一つのとある形に対しての習熟度が遅くなってしまう。
そしてそうした弊害を避ける方法の思い浮かぶものもののもう一つは、持久戦よりも急戦を勉強するのがよいのではないか。というのは、持久戦長になれば得意形には組みにくくなる恐れが高くなるのではないかと思うためだ。
だが、振り飛車党においては、急戦対策に時間をかけているのではないかと思われるため、振り飛車に対して急戦は私はしづらい。ちなみに、私は四間飛車を最近では全く指さないが、その理由は急戦で来られた時に自信がないためである。振り飛車党の研究範囲を避けるために私はある時期までは相振り飛車を指していたのだが、最近では、指しつきを見ていると相振り飛車を苦にしない人が多くなっているのではないかと思ったりもするため、私は相振りを指しづらくなっている。
はてさて、このように考えると、勝つ事というのは大変であると感じてきた。となれば、勝とうとするのならば大変を避けて通ることはまずできないのであろう、と思われてきた。
あるとき、久しぶりにネット将棋を指してみた。上図はその時の局面で、先手は私。
当初の予定は中飛車であったが、後手は相振り飛車を選択。それ故、中飛車を指したかったのであるが、相振り飛車において中飛車を選択するのはよくないという話を聞いたこともあって、断念した。
そしてこの局面になって気づいた事を言えば、そういえばいつもはどう指していたのだろうか、と。
この局面自体は何度も経験があったはずなのだが、どういうわけだか、ここに来て迷ってしまった。そして過去を振り返り考えてみると、いつもはだいたいこの局面は私が後手を持って指している事が多いのに気づいた。
それ故に、ここで少々の時間を使う羽目になった。そういえばこの局面で四間飛車にしている人が多かったなと思い、私は▲6八飛とした。けれども、それ以後の指し方が分からず苦労し、結果は負けてしまった。
そこでこの将棋の敗因を考えると、その一つは、私の準備不足であり、実戦の構え方に問題があった。これは今後において将棋を指していくための私の課題の一つである。
2、いろんな戦法を指すことの長所と短所
私はある時期まで、いろんな戦法を指すようにしていた。その思い浮かぶ理由としては四つある。
一つは、同じ戦法ばかり指していると固定観念に捕らわれて強くなるための弊害となるのではないかという事。
二つは、同じ戦法ばかり指していると飽きてきて、将棋を指し続ける活力が減退するのではないかという事。
三つは、自分の指したい戦法が局面によって必ずしもできるというわけではないので、それによって負けが増える可能性があるのではないかという事。
四つは、どの戦法を指してもたいてい序盤で私は劣勢になったり苦しくなったりする事が多いので、どの戦法を指してもたいして変わらないのではないかという事。
そういうのがあって私はいろんな戦法を指すようにしていた。だが、これには弊害があったと今は思ったりしている。
その一つは、私は序盤で時間を使い過ぎてしまうため、終盤で秒読みに追われる事が多い。それに実戦においては、やはり終盤に時間をある程度残しておくのは大事ではないかと思う。
もう一つは、いろんな戦法を指す事にこだわるあまりに、対局相手が得意形に組まれた場合に弱くなる。それに、対局相手がわざわざ私に得意形を教えてくれるわけでもない。
3、勝つ事の大変さ
ではどうするか。思い浮かぶものとしては、自分の得意形を持つという事なのであろう。そうすれば、序盤の劣勢・時間切迫の危機を免れる可能性が高くなる。
だが、いつも自分の得意形になれるとは限らない。となれば、得意形を一つでなく複数持つのが大事になるのではないか。だが、それを拡大しすぎると今度は一つのとある形に対しての習熟度が遅くなってしまう。
そしてそうした弊害を避ける方法の思い浮かぶものもののもう一つは、持久戦よりも急戦を勉強するのがよいのではないか。というのは、持久戦長になれば得意形には組みにくくなる恐れが高くなるのではないかと思うためだ。
だが、振り飛車党においては、急戦対策に時間をかけているのではないかと思われるため、振り飛車に対して急戦は私はしづらい。ちなみに、私は四間飛車を最近では全く指さないが、その理由は急戦で来られた時に自信がないためである。振り飛車党の研究範囲を避けるために私はある時期までは相振り飛車を指していたのだが、最近では、指しつきを見ていると相振り飛車を苦にしない人が多くなっているのではないかと思ったりもするため、私は相振りを指しづらくなっている。
はてさて、このように考えると、勝つ事というのは大変であると感じてきた。となれば、勝とうとするのならば大変を避けて通ることはまずできないのであろう、と思われてきた。
2007年04月08日
「甘さ」と「酷さ」を退け、「優しさ」と「厳しさ」を有する事
1、解答無き表現
レンタルではあったりするのではあるが、今私は、宇多田ヒカル氏の唄「Flavor Of Life」を聞いている。
まずその感想を軽く言えば、恋愛における葛藤というのか、それを上手く表現しているのだとは思われる。それについては、私自身はどうこういう気はしない。
だが不満を申せば、仮に失恋がどんなに苦しくて悲しくて切ないものであったとしよう。それは認めなくは無いにしても、だから何なのか、と私は思ってしまうわけだ。
というのは、どんなに苦しくて悲しくて切ないにしても、人間は生きていこうとする生き物であるわけなのである。だからつまり、私はその事についての解答を望みたいわけなのである。
例えば、どんなに苦しくて悲しくて切ないにしても、生きていかなければならないわけだ。だからこそ人間は強くあろうとしなければならない、といった事などを詩に含んだ方がいいのではないかと思うわけである。
とはいいながらも、私は歌詞カードを持ち合わせてないので、実際には宇多田ヒカル氏はこの唄で何かを主張しているのかもしれない。そうであれば私は失礼になるか、もしくは私の感性が鈍いために解らないという事になるだろう。だがとにもかくにも主に私の言いたいのは、ここでは表現の在り方や生の在り方、宇多田ヒカル氏のこの唄「Flavor Of Life」を恋愛の葛藤を上手く表現している事のみで良い唄だと捉え方についての少々の批判という事である。
とにもかくにも、くどくなるかもしれないが、解答無き表現はどうなのか、もう少し言えば、人生の型や恋愛の型とでもいうものを導き出そうとする事、その事が私は大事なのではないか、と言いたいのである。
2、人の気持ち
そこで何故に私はそのように思うのかと考えれば、思い浮かぶ事を申せば、私は数学が好きな人間の部類に入るからではないかと思われた。
数学というのはどういうものかと考えれば、「問題」があり、そして「式」を考え、そして「解答」を導き出すわけだ。そして私は数学が好きだという事であれば、私という人間は解答を求めたがる性格なのではないか、という事である。
そこで思い出される事といえば、私は頼んでもいないのに誰かからとある数学の問題を人から教えられたりしたとき、なんで教えるんだ、と怒った事すらある。
また、数学が得意な人の事を指して誉めたり凄いとか言ったりするのを聞いたりしたとき、私はどこが凄いのか、と思った事もある。というのは、その数学の公式を考えた人の方が凄いのであって、我々はその公式に従って問題を解いているわけである。だから何が凄いのか、と当時は思ったりしたわけだ。
それともう一つ言えば、私は将棋が趣味の一つなのだが、「将棋は俺とお前のどちらが数学的に優秀なのかが解かる」などと思ったりもした。
つまり私にはそういう性格があったわけである。ちなみに今ではそれは弱まってきていると思われる。
ともかく何が言いたいのかというと、このような性格から考えられる弊害は、人の気持ちを考えなくなるという事だと思うのだ。ちなみに言えば、私はこの唄「Flavor Of Life」を聞いて、女性における恋愛の葛藤というものをこれまで一度も考えた事はなかったのである。
ちなみに上記で私は、宇多田ヒカル氏のこの唄「Flavor Of Life」を恋愛の葛藤を上手く表現している事のみで良い唄だと捉え方についての少々の批判をしたい、といった事を書いた。そこで何故に「少々の批判」と書いたのかと言えば、単純に言えば、解答について無思慮なのはどうかとは思うが、恋愛の葛藤を上手く表現している事について高評価するのは良いのではないか、という事である。それをもっとまとめて言えば、半面悪いが半面良い、といったところである。
3、感情主義・解答主義(甘さ・優しさ・厳しさ・酷さ)
そこで私は、過剰に感情に拘る事を「感情主義」とし、過剰に解答や型を導き出すのに拘る事を「解答主義」としよう。それは一般的な定義であるかどうかはともかくとして、この話の便宜上、とりあえずここではそのように捉えておく。
そしてそのどちらかが正しいのかといえば、そのどちらも半分正しく半分間違いなのではないか、と思うわけだ。
そして感情主義というのは、「優しさ」と「甘さ(もしくは悪い優しさ)」に繋がるのではないかと思う。例えば、苦しくて悲しくて切ない人がいたとした場合、その気持ちを感じとれる人はその人に対して優しくなれるのではないかという事である。だがそれは場合によっては「甘さ」に繋がりかねない。それは例えば、教育方面で言われたりする過保護に繋がってしまうのではないか、という事である。
逆に解答主義というのは、「厳しさ」と「酷さ(もしくは悪い厳しさ)」に繋がるのではないか。例えば、とある何かを主張(解答)する事は、その主張(解答)と反する人たちに対して厳しいものではないかと思うわけだ。だが場合によっては、苦しくて悲しくて切ない人に対して「努力が足りない」と言う事は、その人を追い詰める事にもなりうるので「酷さ」に繋がるのではないか、という事である。
そこで大事なのは、「甘さと酷さ」を退け、「優しさと厳しさ」を有する事であると思われる。言うなれば、半感情主義と半解答主義の領域が大事なのではないか、という事である。そしてそれは、俗に「アメとムチ」と呼ばれたりするものなのであろう。
だがここで、解答主義も「優しさと甘さ」に繋がる場合もあるではないか、感情主義も「厳しさと酷さ」に繋がる場合もあるのではないかと考えられるが、そうなるとややこしくなるので、ここでは問題にしない。
そこでこの話の流れからこの唄「Flavor Of Life」を評すると、私は感情主義の匂いが強いのではないかと思うわけだ。それ故、この唄は「甘さ」の部分を切り落として解釈された方がよいのではないかと思う。
例えば、「女は恋愛でこんなに苦しい思いをしているのだから、男はもっと女にいたわりなさい」とでもいうように解釈されたとしたら、それは甘え、言い換えるならば依存心を逞しくさせる事に繋がってしまうのではないかという事である。
それと、解答主義的に解釈するならば、「酷さには繋がらぬよう、どんなに苦しい事があったとしても、そこから解答を見出し生きていこうと頑張らねばならない」と受け手は捉えておこうとしておくのが良いのではないか。
レンタルではあったりするのではあるが、今私は、宇多田ヒカル氏の唄「Flavor Of Life」を聞いている。
まずその感想を軽く言えば、恋愛における葛藤というのか、それを上手く表現しているのだとは思われる。それについては、私自身はどうこういう気はしない。
だが不満を申せば、仮に失恋がどんなに苦しくて悲しくて切ないものであったとしよう。それは認めなくは無いにしても、だから何なのか、と私は思ってしまうわけだ。
というのは、どんなに苦しくて悲しくて切ないにしても、人間は生きていこうとする生き物であるわけなのである。だからつまり、私はその事についての解答を望みたいわけなのである。
例えば、どんなに苦しくて悲しくて切ないにしても、生きていかなければならないわけだ。だからこそ人間は強くあろうとしなければならない、といった事などを詩に含んだ方がいいのではないかと思うわけである。
とはいいながらも、私は歌詞カードを持ち合わせてないので、実際には宇多田ヒカル氏はこの唄で何かを主張しているのかもしれない。そうであれば私は失礼になるか、もしくは私の感性が鈍いために解らないという事になるだろう。だがとにもかくにも主に私の言いたいのは、ここでは表現の在り方や生の在り方、宇多田ヒカル氏のこの唄「Flavor Of Life」を恋愛の葛藤を上手く表現している事のみで良い唄だと捉え方についての少々の批判という事である。
とにもかくにも、くどくなるかもしれないが、解答無き表現はどうなのか、もう少し言えば、人生の型や恋愛の型とでもいうものを導き出そうとする事、その事が私は大事なのではないか、と言いたいのである。
2、人の気持ち
そこで何故に私はそのように思うのかと考えれば、思い浮かぶ事を申せば、私は数学が好きな人間の部類に入るからではないかと思われた。
数学というのはどういうものかと考えれば、「問題」があり、そして「式」を考え、そして「解答」を導き出すわけだ。そして私は数学が好きだという事であれば、私という人間は解答を求めたがる性格なのではないか、という事である。
そこで思い出される事といえば、私は頼んでもいないのに誰かからとある数学の問題を人から教えられたりしたとき、なんで教えるんだ、と怒った事すらある。
また、数学が得意な人の事を指して誉めたり凄いとか言ったりするのを聞いたりしたとき、私はどこが凄いのか、と思った事もある。というのは、その数学の公式を考えた人の方が凄いのであって、我々はその公式に従って問題を解いているわけである。だから何が凄いのか、と当時は思ったりしたわけだ。
それともう一つ言えば、私は将棋が趣味の一つなのだが、「将棋は俺とお前のどちらが数学的に優秀なのかが解かる」などと思ったりもした。
つまり私にはそういう性格があったわけである。ちなみに今ではそれは弱まってきていると思われる。
ともかく何が言いたいのかというと、このような性格から考えられる弊害は、人の気持ちを考えなくなるという事だと思うのだ。ちなみに言えば、私はこの唄「Flavor Of Life」を聞いて、女性における恋愛の葛藤というものをこれまで一度も考えた事はなかったのである。
ちなみに上記で私は、宇多田ヒカル氏のこの唄「Flavor Of Life」を恋愛の葛藤を上手く表現している事のみで良い唄だと捉え方についての少々の批判をしたい、といった事を書いた。そこで何故に「少々の批判」と書いたのかと言えば、単純に言えば、解答について無思慮なのはどうかとは思うが、恋愛の葛藤を上手く表現している事について高評価するのは良いのではないか、という事である。それをもっとまとめて言えば、半面悪いが半面良い、といったところである。
3、感情主義・解答主義(甘さ・優しさ・厳しさ・酷さ)
そこで私は、過剰に感情に拘る事を「感情主義」とし、過剰に解答や型を導き出すのに拘る事を「解答主義」としよう。それは一般的な定義であるかどうかはともかくとして、この話の便宜上、とりあえずここではそのように捉えておく。
そしてそのどちらかが正しいのかといえば、そのどちらも半分正しく半分間違いなのではないか、と思うわけだ。
そして感情主義というのは、「優しさ」と「甘さ(もしくは悪い優しさ)」に繋がるのではないかと思う。例えば、苦しくて悲しくて切ない人がいたとした場合、その気持ちを感じとれる人はその人に対して優しくなれるのではないかという事である。だがそれは場合によっては「甘さ」に繋がりかねない。それは例えば、教育方面で言われたりする過保護に繋がってしまうのではないか、という事である。
逆に解答主義というのは、「厳しさ」と「酷さ(もしくは悪い厳しさ)」に繋がるのではないか。例えば、とある何かを主張(解答)する事は、その主張(解答)と反する人たちに対して厳しいものではないかと思うわけだ。だが場合によっては、苦しくて悲しくて切ない人に対して「努力が足りない」と言う事は、その人を追い詰める事にもなりうるので「酷さ」に繋がるのではないか、という事である。
そこで大事なのは、「甘さと酷さ」を退け、「優しさと厳しさ」を有する事であると思われる。言うなれば、半感情主義と半解答主義の領域が大事なのではないか、という事である。そしてそれは、俗に「アメとムチ」と呼ばれたりするものなのであろう。
だがここで、解答主義も「優しさと甘さ」に繋がる場合もあるではないか、感情主義も「厳しさと酷さ」に繋がる場合もあるのではないかと考えられるが、そうなるとややこしくなるので、ここでは問題にしない。
そこでこの話の流れからこの唄「Flavor Of Life」を評すると、私は感情主義の匂いが強いのではないかと思うわけだ。それ故、この唄は「甘さ」の部分を切り落として解釈された方がよいのではないかと思う。
例えば、「女は恋愛でこんなに苦しい思いをしているのだから、男はもっと女にいたわりなさい」とでもいうように解釈されたとしたら、それは甘え、言い換えるならば依存心を逞しくさせる事に繋がってしまうのではないかという事である。
それと、解答主義的に解釈するならば、「酷さには繋がらぬよう、どんなに苦しい事があったとしても、そこから解答を見出し生きていこうと頑張らねばならない」と受け手は捉えておこうとしておくのが良いのではないか。
2007年04月01日
国際大会というテーマで。
1、解説において
国際大会のスポーツの解説で、「よいですねー」とか「やったー」というのを聞くと、私は、帰ってくれ、と思ってしまう。
というのは、その程度であれば私でもできるし、その辺りにいる人を捕まえて解説させればいいのではないかと思うのだ。
「よいですねー」というのは悪いとは思わないが、何故にそれは良いのかという事について語られていないのではないかと思ったりする。そして何故にそのようになってしまうのかと考えれ、日本を応援したいという感情が強く働きすぎてしまうあまりにそのようになってしまうのであろうと思う。とにもかくにも、私はそのような解説は好めないし、良い解説だとも思えない。
それともう一つ思う事を言えば、私はプロ野球が好きなわけであるが、プロ野球をテレビで観戦していると、うちの母ちゃんに熱心に解説している私がいる。
では何故に私は解説するのかと考えると、まずその回答を言うと、選手が可哀想だなと思ってしまうからだ。
もう少し言うと、プロの選手は当然ながら頑張っている。頑張っているのにも関わらず、良いプレーをしたのにも関わらず観戦者がそれに気づかなかったら、プロの選手は一体何のために頑張ったのかという話になってくるのではないだろうか。
別の例えでいけば、ある子供が頑張って勉強してテストで100点を取ったのに、誰にも気づかれなかったらどうであろうか、という事である。
そのような事を思う私としては、単に「よいですねー」とか「やったー」なる解説を聞くと、何か腹立たしいものを感じてしまうのだ。国際大会の解説者になる人というのは、そのスポーツに実際に携わった者たちがほとんどであろう。にも関わらずそのような解説をしている人をみれば、とある監督の声真似をしていえば「シンジラレナーイ」と感じたりもする。
2、健全な楽しみ方とは
そういうのもあって私は、スポーツ自体を楽しむのならば、国際大会よりも国内大会の方が楽しめるのではないかと思った。
というのは、国際大会ならば自民族の勝ち負けにこだわりすぎるためで、スポーツ自体の面白さは伝わってこないのではないかと思うためである。国内大会であれば、その要素は剥ぎ取られるのではないかと思うため、スポーツを楽しめるのではないかという事だ。
では私という人間はスポーツの何が楽しいのかといえば、私は選手の感情や精神を考察するのが楽しいのである。そしてその事が、国際大会では減じられて伝えられがちなのではないだろうか思うわけだ。かといって、決して国際大会の選手たちが悪しき感情や精神でプレーしているのだと言っているのではない。ただとにもかくにも、私は自民族の勝ち負けよりも、選手の感情や精神の考察に時間をかける、もしくはそれを楽しむ事が有意義なものがあるのではないかと思うのである。
そこで私が思うに、「感情・精神(の領域)→能力・技術(の領域)→表現・結果(の領域)」、これを「表現・結果に至るまでの三段の流れ」と名づけよう。そして国際大会というのは国内大会と比べて、「表現・結果の領域」に対して照射され過ぎになるのではないか、という事だ。
そしてそれを緩和するのは、解説者やそれに対しての専門知識が蓄えられている著書ではないかと思う。そしてそれが、「能力・技術の領域」に理解に繋がるわけだ。そして、「感情・精神の領域」に歩みを進める事ができるのではないか、という事である。
それらをまとめれば、「表現・結果(の領域)→能力・技術(の領域)→感情・精神(の領域)」という「感情・精神を見出すための三段の流れ」があるのではないか。そしてそれが、私はスポーツのみならず、あらゆる事柄において健全な楽しさや面白さや喜びを見出すものなのではないかと思うのである。
そしてこの「感情・精神を見出すための三段の流れ」が成立していない状態(もしくは、表現・結果に過剰に拘る事)」から生じる弊害は、自民族中心主義、新奇なものに対する熱狂、道徳心無き勝負の拘り、その他としてはホイジンガのいう小児病(引用文はこちら)に繋がるのではないか、という事である。
それとちなみに、右寄りの方面からは、国際大会が愛国心を喚起するものだとかで歓迎的に受け取られる向きがあるようではある。だが、このように思う私からすれば、とても歓迎する気にはなれないのである。
最後に、愛についてここで簡単に触れれば、私は愛という言葉が、正気と狂気のその双方に置いて動揺しており、愛という言葉が正気の位置に定められていないで使用されているのではないかと思われる。だから私は、愛という言葉を狂気性を拝し正気へと位置づけるための定義を形成する事、またはその作業が大事なのではないかと思われる。
国際大会のスポーツの解説で、「よいですねー」とか「やったー」というのを聞くと、私は、帰ってくれ、と思ってしまう。
というのは、その程度であれば私でもできるし、その辺りにいる人を捕まえて解説させればいいのではないかと思うのだ。
「よいですねー」というのは悪いとは思わないが、何故にそれは良いのかという事について語られていないのではないかと思ったりする。そして何故にそのようになってしまうのかと考えれ、日本を応援したいという感情が強く働きすぎてしまうあまりにそのようになってしまうのであろうと思う。とにもかくにも、私はそのような解説は好めないし、良い解説だとも思えない。
それともう一つ思う事を言えば、私はプロ野球が好きなわけであるが、プロ野球をテレビで観戦していると、うちの母ちゃんに熱心に解説している私がいる。
では何故に私は解説するのかと考えると、まずその回答を言うと、選手が可哀想だなと思ってしまうからだ。
もう少し言うと、プロの選手は当然ながら頑張っている。頑張っているのにも関わらず、良いプレーをしたのにも関わらず観戦者がそれに気づかなかったら、プロの選手は一体何のために頑張ったのかという話になってくるのではないだろうか。
別の例えでいけば、ある子供が頑張って勉強してテストで100点を取ったのに、誰にも気づかれなかったらどうであろうか、という事である。
そのような事を思う私としては、単に「よいですねー」とか「やったー」なる解説を聞くと、何か腹立たしいものを感じてしまうのだ。国際大会の解説者になる人というのは、そのスポーツに実際に携わった者たちがほとんどであろう。にも関わらずそのような解説をしている人をみれば、とある監督の声真似をしていえば「シンジラレナーイ」と感じたりもする。
2、健全な楽しみ方とは
そういうのもあって私は、スポーツ自体を楽しむのならば、国際大会よりも国内大会の方が楽しめるのではないかと思った。
というのは、国際大会ならば自民族の勝ち負けにこだわりすぎるためで、スポーツ自体の面白さは伝わってこないのではないかと思うためである。国内大会であれば、その要素は剥ぎ取られるのではないかと思うため、スポーツを楽しめるのではないかという事だ。
では私という人間はスポーツの何が楽しいのかといえば、私は選手の感情や精神を考察するのが楽しいのである。そしてその事が、国際大会では減じられて伝えられがちなのではないだろうか思うわけだ。かといって、決して国際大会の選手たちが悪しき感情や精神でプレーしているのだと言っているのではない。ただとにもかくにも、私は自民族の勝ち負けよりも、選手の感情や精神の考察に時間をかける、もしくはそれを楽しむ事が有意義なものがあるのではないかと思うのである。
そこで私が思うに、「感情・精神(の領域)→能力・技術(の領域)→表現・結果(の領域)」、これを「表現・結果に至るまでの三段の流れ」と名づけよう。そして国際大会というのは国内大会と比べて、「表現・結果の領域」に対して照射され過ぎになるのではないか、という事だ。
そしてそれを緩和するのは、解説者やそれに対しての専門知識が蓄えられている著書ではないかと思う。そしてそれが、「能力・技術の領域」に理解に繋がるわけだ。そして、「感情・精神の領域」に歩みを進める事ができるのではないか、という事である。
それらをまとめれば、「表現・結果(の領域)→能力・技術(の領域)→感情・精神(の領域)」という「感情・精神を見出すための三段の流れ」があるのではないか。そしてそれが、私はスポーツのみならず、あらゆる事柄において健全な楽しさや面白さや喜びを見出すものなのではないかと思うのである。
そしてこの「感情・精神を見出すための三段の流れ」が成立していない状態(もしくは、表現・結果に過剰に拘る事)」から生じる弊害は、自民族中心主義、新奇なものに対する熱狂、道徳心無き勝負の拘り、その他としてはホイジンガのいう小児病(引用文はこちら)に繋がるのではないか、という事である。
それとちなみに、右寄りの方面からは、国際大会が愛国心を喚起するものだとかで歓迎的に受け取られる向きがあるようではある。だが、このように思う私からすれば、とても歓迎する気にはなれないのである。
最後に、愛についてここで簡単に触れれば、私は愛という言葉が、正気と狂気のその双方に置いて動揺しており、愛という言葉が正気の位置に定められていないで使用されているのではないかと思われる。だから私は、愛という言葉を狂気性を拝し正気へと位置づけるための定義を形成する事、またはその作業が大事なのではないかと思われる。
2007年03月29日
壁を思い切りぶん殴りたくなる時
私は右利きなのであるが、左手でも字を書いたり箸を使ったりする事ができる。
ある時、テレビか何かで、右利きの人が右手の骨を折ったが故に不便であった、なる話を聞いた事がある。
それを聞いたとき、私は右手が折れても左手がそこそこ使えるから、そうではない人より不便は感じないだろうと思われた。そのように思うと、右手を折ったとしても左手がそこそこ使えるため、得した気分になれるのではないかと思ったりする。
だが未だに、私は右手を折った事が一度もない。
だから私は、そのような事を思うと、壁を思いっきりぶん殴りたくなる時がある。
…まあ、どーでもいい話なんですが(笑)。
ある時、テレビか何かで、右利きの人が右手の骨を折ったが故に不便であった、なる話を聞いた事がある。
それを聞いたとき、私は右手が折れても左手がそこそこ使えるから、そうではない人より不便は感じないだろうと思われた。そのように思うと、右手を折ったとしても左手がそこそこ使えるため、得した気分になれるのではないかと思ったりする。
だが未だに、私は右手を折った事が一度もない。
だから私は、そのような事を思うと、壁を思いっきりぶん殴りたくなる時がある。
…まあ、どーでもいい話なんですが(笑)。
2007年03月28日
戦争と戦後の唄
テレビで昔の唄の特集といったものを観る時がある。
それは、私の聞く限りにおいては、戦争が終わった事への安堵感、そしてそういったものの中から、命の大切さなる解釈が編まれたりする。
確かに、戦争が終わった事に対しどこか安心というか、そういうものがあったのだろうとは思われてくるため、その事についてはどこまでも強く文句を言う気にはなれない。
だが、日本を守るために戦った者たちがいたわけで、そういう人たちに対し、命の大切さといったところで彼らは報われるのだろうかと思われてきたりもする。それと、民族の精神や誇りといったもの、そういう観点からの唄が当時は乏しかったのではないかとも思われた。
そのようにあれこれと考えると、戦死者に対して失礼ではなかったか、という思いが私には拭えなかったりするのであった。
それは、私の聞く限りにおいては、戦争が終わった事への安堵感、そしてそういったものの中から、命の大切さなる解釈が編まれたりする。
確かに、戦争が終わった事に対しどこか安心というか、そういうものがあったのだろうとは思われてくるため、その事についてはどこまでも強く文句を言う気にはなれない。
だが、日本を守るために戦った者たちがいたわけで、そういう人たちに対し、命の大切さといったところで彼らは報われるのだろうかと思われてきたりもする。それと、民族の精神や誇りといったもの、そういう観点からの唄が当時は乏しかったのではないかとも思われた。
そのようにあれこれと考えると、戦死者に対して失礼ではなかったか、という思いが私には拭えなかったりするのであった。
2007年03月27日
【音楽】湘南乃風の純恋歌について
ある時、CDショップにいると、湘南乃風の唄「純恋歌」が耳に飛び込んで来た。
耳に飛び込んで来た当初、「長渕剛さんは唄を提供したのかな」と思った。というのは、長渕剛氏の唄「指切りげんまん」の曲と似ていると感じたためである。
その事が悪いとかどうかはともかくとして、そのように感じたのは私だけなのであろうか。
耳に飛び込んで来た当初、「長渕剛さんは唄を提供したのかな」と思った。というのは、長渕剛氏の唄「指切りげんまん」の曲と似ていると感じたためである。
その事が悪いとかどうかはともかくとして、そのように感じたのは私だけなのであろうか。
2007年03月26日
ボナンザVS渡辺明竜王戦の感想
大和証券杯ネット将棋公式ホームページに、ボナンザVS渡辺明竜王戦の棋譜が掲載されていた。会員登録(無料)をすれば見る事ができる。ちなみに、いつまで棋譜が掲載されているのかは不明。
ボナンザは将棋倶楽部24のレーティングが2800ぐらいあるそうである。ちなみに私のレーティングは4桁も無いのだが…。
ともかく感想を言えば、私はコンピュータ将棋には詳しくないのだが、印象としてはコンピュータや機械といえば、ぎこちないというか柔軟性がないというか、そういう印象が私にはあった。ところが、他のコンピュータ将棋はどうかは分からないのだが、ボナンザは私の見る限りにおいては、ぎこちないとか柔軟性がないとかというようには見えず、人間っぽいところがあるように見えた。
今後コンピュータ将棋はどうなっていくのか。私にとってはそれが興味深く感じさせられる一戦だった。
ボナンザは将棋倶楽部24のレーティングが2800ぐらいあるそうである。ちなみに私のレーティングは4桁も無いのだが…。
ともかく感想を言えば、私はコンピュータ将棋には詳しくないのだが、印象としてはコンピュータや機械といえば、ぎこちないというか柔軟性がないというか、そういう印象が私にはあった。ところが、他のコンピュータ将棋はどうかは分からないのだが、ボナンザは私の見る限りにおいては、ぎこちないとか柔軟性がないとかというようには見えず、人間っぽいところがあるように見えた。
今後コンピュータ将棋はどうなっていくのか。私にとってはそれが興味深く感じさせられる一戦だった。
2007年03月25日
今更エヴァンゲリオン
何巻だったかは忘れたが、漫画「エヴァンゲリオン」を読んだ。どこで読んだかといえば、ラーメン屋で時間潰しのためにパラパラと読んだだけである。
その程度のものでしかないが感想を言えば、私にとっては興味深いものであった。それは思うに、最近では社会・思想方面に関心が高くなったが故であるとは思われる。この作品は私が中学生ぐらいの頃に話題となっていたわけだか、時を経てから読むと感じ方も変わるのだな、とも思ったりもした。
そこで思った事を言えば、この作品は結末の意味が分からないだとか謎であるとか、そのような事が騒がれた記憶がある。そしてそれらの多くは、この作品の核心的部分から外れているのではないかという気もしてきた。
それと思うに、どうしてそのような結末になったのかと考えれば、作者自身が特にこれといった回答を用意していなかったためではないかという気がする。だとした場合に何故にそうなったかといえば、それは現代の虚無感を描写する事にこの作品は焦点を当てたかったためではないかと、とりあえずそう捉えておいている。
とはいいながらも、私はこの作品を前編通して観たわけでもない。機会があれば今度観てみたい作品ではあった。
その程度のものでしかないが感想を言えば、私にとっては興味深いものであった。それは思うに、最近では社会・思想方面に関心が高くなったが故であるとは思われる。この作品は私が中学生ぐらいの頃に話題となっていたわけだか、時を経てから読むと感じ方も変わるのだな、とも思ったりもした。
そこで思った事を言えば、この作品は結末の意味が分からないだとか謎であるとか、そのような事が騒がれた記憶がある。そしてそれらの多くは、この作品の核心的部分から外れているのではないかという気もしてきた。
それと思うに、どうしてそのような結末になったのかと考えれば、作者自身が特にこれといった回答を用意していなかったためではないかという気がする。だとした場合に何故にそうなったかといえば、それは現代の虚無感を描写する事にこの作品は焦点を当てたかったためではないかと、とりあえずそう捉えておいている。
とはいいながらも、私はこの作品を前編通して観たわけでもない。機会があれば今度観てみたい作品ではあった。
2007年03月24日
【テレビゲーム】「逆転裁判」が4作目
最近では、テレビゲームをする事はめっきり減った。それでも、あるときにふとテレビゲームがしたくなってする事はあるが、ゲームクリアに至らずに終えてしまう。
だが、カプコン社の「逆転裁判2」はクリアできた。そして現在「逆転裁判1」をプレイ中である。それと、今年の4月12日にニンテンドーDSで「逆転裁判4」が発売されるようである。
ちなみにこの「逆転裁判」は、続編を出す予定はなかったそうである。それは何故かと自分で考えると、それはこのように裁判をゲームにするというのは今までに例がないであろうし、裁判というのはどこか堅苦しいとでもいうか、そういう印象があるのではないかと思う。そしてそのようなゲームが売れるのであろうかというのがあって、続編を出す予定はなかったのではないかと私は思ったりする。その私の考えが正しいかどうかはともかくとして、ともかくそのように私には思ったりするテレビゲームがシリーズ4作目となるというのは面白いものであると私には感じられた。
そこで思うに、この「逆転裁判」を制作するにあたっての課題は何かと考えれば、上記を踏まえていえば、とっつきやすいものにする、という事なのではなかっただろうか。キャラクター、演出、物語にはこれといって堅苦しいものは感じてこない。裁判なのでこのゲームには謎解きの要素が当然ながらつきまとうが、単にそれのみにとどまっていないと私には思われるので、そこに私はこのゲームの魅力を感じた。
だが、カプコン社の「逆転裁判2」はクリアできた。そして現在「逆転裁判1」をプレイ中である。それと、今年の4月12日にニンテンドーDSで「逆転裁判4」が発売されるようである。
ちなみにこの「逆転裁判」は、続編を出す予定はなかったそうである。それは何故かと自分で考えると、それはこのように裁判をゲームにするというのは今までに例がないであろうし、裁判というのはどこか堅苦しいとでもいうか、そういう印象があるのではないかと思う。そしてそのようなゲームが売れるのであろうかというのがあって、続編を出す予定はなかったのではないかと私は思ったりする。その私の考えが正しいかどうかはともかくとして、ともかくそのように私には思ったりするテレビゲームがシリーズ4作目となるというのは面白いものであると私には感じられた。
そこで思うに、この「逆転裁判」を制作するにあたっての課題は何かと考えれば、上記を踏まえていえば、とっつきやすいものにする、という事なのではなかっただろうか。キャラクター、演出、物語にはこれといって堅苦しいものは感じてこない。裁判なのでこのゲームには謎解きの要素が当然ながらつきまとうが、単にそれのみにとどまっていないと私には思われるので、そこに私はこのゲームの魅力を感じた。


